I fuxxin love science!

こんにちは。大地です。
今回のテーマ「科学とは何か?」についてお話しする前に、少しだけなぜこのテーマについて記事を書こうと思ったのかについて説明したいと思います。

一つのきっかけは先日、私が大学院の修士課程を卒業したことです。
修士卒業という一つの節目の出来事を経て、これまで自分の中にあった「科学」とは何なのだろう?とこの場で文字におこしてみたくなりました。
当然、自分の中の「科学」の定義とは自らの経験によって今後も変わるものだと思いますが、今感じる「科学」を素直に書いてみたいと思います。

もう一つのきっかけは、今月、palpunteのメンバーで新たな試み、PALpunte Summit (PALS) を始めるというところにあります。
近年、科学を取り巻く世の中のうねりは激しくなっており、経済、政治、テクノロジー等と混ざり合い議論を呼ぶ問題にも発展することがあります。
例えば、基礎科学の重要性、研究への投資、AIの台頭、生命倫理、地球温暖化といったものが挙げられます。
PALSはscienceにまつわる議論をより広めていきたい、インタラクティブにしていきたいという思いからスタートすることになりました。
ライブの動画配信を通じて、より多くの人とつながり、議論できることを楽しみにしています。
PALSの詳しい内容に関してはホームページをご覧ください。
話がそれましたが、PALSの記念すべき第一回の議論テーマが「科学とは何か?」になります。
それに先立ち、脱線しながらも、自分の中の「科学」の価値観を記したいと思います。

 


科学は文化である


科学とは何でしょうか?
「科学」というと物理、化学、生物、テクノロジー、ITといった単語が連想されると思います。
しかし、「科学」とは理系に限った用語ではありません。
例えば、文系の領域を見てみると、人文科学、社会科学といった専攻があります。

私個人の考えでは科学とは論理性であり、またそれに基づく知識体系を指すのではないかと思います。
つまり、AなのでBである、BなのでCであると論理的な因果関係によって導き出せれるものが科学です。
そう考えると、科学とは文系・理系無関係であることが分かります。

昨今では科学があたかも絶対的な正義であるかのように語られることがありますが、それもこの論理性によるものです。
論理性は異なる価値観を持った人間が同じ指標を持つことができるという点においては非常に有用ですが、それは必ずしも「正しい」ことと一致するわけではありません。
イエスキリストが水の上を歩いたというのは、ある人間からしたら「正しい」のでしょうが、論理性という観点からは信憑性に欠けます。
科学的にはあり得ませんが、キリスト教からしたら当たり前の「正しい」事実となっています。

ここにはどちらが「間違っている」というのは存在しません。
ただ、考え方の根本が異なっているだけです。
たまたま現世においては人々が論理的に考えることが定着していますが、熱心なキリスト教徒の地を踏んだらこの常識は覆されるでしょう。
そういった意味では科学と宗教は似ているのかもしれません。
同じような論理で科学は宗教、芸術、文学と似ているといえます。

先ほど述べたように科学は論理性を基盤とした知識体系ですが、宗教、芸術、文学はそれぞれより人間の内面にその基盤が存在します。
いずれにせよ、これらは全て人の生き方、考え方、あり方に影響を与えるものであり、その点で文化と見なすことができます。
私は、科学もある種の文化であると考えています。

科学はその他の文化と同様に、人々を感化するものです。
例えば、ニュートリノについて何か知っていたとしても生活では役立ちませんが、夜空を見上げた時、宇宙から今大量のニュートリノがやってきて自分の体を通過しているんだ!と実感できたら、少し人生が豊かになった気持ちになるのではないでしょうか。
また、スターウォーズでダースベーダがフォースを使うには自分の100倍くらいの筋力がないとダメなんだ!ということも分かります。全く役には立ちませんが。

強調しているように、私は科学とは他の文化同様に役に立たないものだと考えています。
ただ、知っているというだけで少し好奇心が満たされ、少し幸せな気持ちになれる、そういったものではないでしょうか。

 

しかし、現代社会において科学は違うとらえ方をされています。
人間は科学を発展させることで、自然を扱う力を手に入れました。
人間と比べたとき、この地球上にある自然とそのエネルギーというのはとてつもなく膨大なものです。
これを取り込むことによって人間は強くなれる、お金持ちになれるということを学びました。

資本主義の台頭もあり、お金になるものには投資が盛んにおこなわれています。
経済の流れに逆らうことは難しく、当然科学もこの資本主義の流れに飲み込まれています。
よって、ありがたいことに、科学研究は多くの投資を受けることができています。
しかし、一方でこれは「科学=役に立つ、お金になる」という価値観を人々に植え付けています。

本当に科学とは役に立つものなのでしょうか?お金になるものなのでしょうか?
これは科学者の間では良く議論される話題ですが、皆さんは如何お考えでしょうか?

 


研究者としての葛藤


ここまでに記した、科学の板挟みな状態は、科学を志す者にも大きくのしかかってくる問題です。

科学が好き!という人は、多くの場合自分の知的好奇心をただ純粋に満たしたいだけなのではないでしょうか?
少なくとも私はそうです。
まだ誰も見たことがないモノを見てみたい、すごいかっこいいこともの作ってみたい、そんな子供のようなモチベーションでここまでやってきておりますし、今後もそうであったらいいなと思います。

しかし、一方で、これだけ潤沢な資金をもらって、かつ研究者の道を志すことができているのは科学研究が予算をいただけているからです。
そこには少なからず、お金になる研究をしなさいというメッセージが込められています。

当然、お金になるような研究は様々な行政機関、企業から資金提供を頂きやすくなります。
逆に基礎研究と呼ばれるような応用から遠い研究はなかなか資金が下りないと話題に上がることがしばしばあります。

抽象的な言葉を並べると実感がわかないかもしれません。
不治の病に効く薬ができるかもしれないから臨床試験を行いたい(応用研究)といったら、どこもこぞって研究費を出すでしょう。
一方、例えば、海底火山に生息する細菌について調べたい(基礎研究)といっても必要なお金を集めるのに苦労します。
しかし、実際には海底火山に生息する最近について調べている際に、不治の病に効く薬が見つかったりするものなのです。

話は脱線しますが、世間では、上に述べたような話を持ち出して基礎研究の可能性は無限大で、将来いずれ役に立つかもしれないから大事だ!とよく述べられます。
確かに、と思います。
基礎研究の重要性を示すためにはその可能性に言及するしかないのでこう言うしかありません。
有用性を示さないと基礎研究を続けられないというのは、いかに科学が現在の経済の仕組みに取り込まれてしまっているかを物語っているのではないでしょうか。
科学とは面白い!というだけではだめなのでしょうか?

話を戻しましょう。
よって、研究で生きていくためには、よほど優秀でない限り、多くの研究者は妥協をしてしまうのではないでしょうか。
好奇心で研究を続けたいが、お金をもらうためには、役に立つことをしなけらばならないと。

私の見解としては、やはり、現代社会において科学を志すのであれば「役に立つ」「社会に還元する」ということを少なからずアピールしないといけないのではないかと思います。
科学者は世の中にあふれるほどいますが、これほど多くの人が科学を志すことができたのは、お金になるという側面が必ずあります。
よって、可能な限り自分の知的好奇心を満たしつつ、ただただ自己満ではなく、少しは社会に貢献するという気概がない科学者は社会人として失格なのではと思います。
夢と責任のバランス、とても難しい問題です。


科学と今後


最後に、科学とは何かというテーマから少し離れ、科学の今後について書きたいことを書いていきます。

キリスト教には明確な神がいましたが、現代社会において科学もある種神様のような存在になっているのではないかと感じます。
「科学は絶対である」といった風潮が蔓延しています。

上で述べたように、確かに科学はこれまで膨大な金をもたらす甘い蜜でした。
資本主義社会にいるとお金を持つことが目的となってしまい、ほかのことを見失いがちになってしまいますが、科学は金をもたらしはしても幸せをもたらすとは限りません

むしろ、科学とその発展はこれまで人の欲に火をつけ多くの問題を引き起こしてきました。
例を挙げればきりがありませんが、地球温暖化、資源枯渇、武器の開発、生命倫理問題、シンギュラリティ問題などです。

しかし、現状ある問題を解決するためにはさらに技術進歩する必要があり、科学研究はより一層盛んになります。
我々はいわば回し車で走り続けるハムスターだと思います。
この無限ループはいつまで続くのでしょうか?
人間が自らの手で首を絞めて絶滅する前に全て科学が解決してくれる時が来るのでしょうか?

 

そんな現状が悲しくもあります。
本当は夜空を見上げた時、あの星はね、青色ってことはね、表面の温度がね・・・
とか、あそこにある星は大熊座っていってね、昔・・・
とか、その他の文化がそうであるように、科学は人を幸せにするもの、人の生き方を豊かにするものであってほしかったと思います。

「資本」ではなく、「幸せ」「豊かさ」といったより抽象的なものに焦点を絞った経済システムはないものでしょうか。
変な締め方で申し訳ありませんが、科学も「お金になるか」ではなく「世の中を幸せにするか」といった評価基準で見てもらえたらなと思います。

タイトル画像の出典:http://www.brownhills.walsall.sch.uk/science/

 

大地

投稿者プロフィール

大地
大地
東京大学物理工学科卒業。現在ブランダイス大学にて物理(ソフトマター・生物物理)を専攻中。Ph.D.1年目。好きな筋トレはトライセプスエクステンション。好きなビールはIPA。

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