ある日の合コンでの出来事。
Aさん(看護学生):C.ロナくんって、東大生なんだね!すごいね〜!!
C.ロナ(筆者):大したことないよ〜。浪人してるし!(笑)
Aさん:東大受かってる時点でやばいよ!!私とは頭の出来が違うなぁ〜(笑)
C.ロナ:そんなことないよ!実際、そんな変わらんってー。
Aさん:いやいや、もう才能の差が・・・(笑)
C.ロナ:う〜ん、でも例えば、患者の問診とか俺できないけど、Aちゃんできるっしょ?
Aさん:できるけど、、、でもそれは勉強してないだけじゃん!!
C.ロナ:じゃあ、Aちゃんも東大に受かる勉強してないだけじゃん?(笑)
Aさん:・・・・。(怒)
まだ、合コンし始めたばっかりのことなので、合コンテクニックの良否に関しては大目に見て頂くとして、
このような、よく見かける(?)会話の中に見られるのは、
多くの人が、「何かを考える」には、知っているか知らないか、すなわち「知識」が必要であると思っている一方で、同時にそのような「知識」からある程度独立した、「考える力」や「知能」(上の事例でいう「頭の出来」、「才能」)なるものが存在していると思っている、ということです。
わざわざこんな言い方をしているので、ご察しがつくかと思いますが、
「知識」と「考える力」は分離できず密接に結びついている、ということを示していきたいと思います。
が、
その際、おそらく、皆さんが考えているよりも、ずっっっとそうであることの根拠を紹介していきたいと思います!
(私が本当に主張したいのは、「知識」=「考える力」ですが、それはもう少し複雑な議論が必要なので、今回はそのイントロだと考えて頂ければと思います。)
4枚カード問題(Wason, 1966)と飲酒問題(Griggs & Cox, 1982)
まず下の問題を、問題文を読んで理解してから10秒くらいで考えてみてください。
10秒後答えがわからなくても、次の問題に進んでください!
次に、以下の問題も同じく問題を理解してから10秒くらいで考えてみてください。
どうでしょうか?
飲酒問題はわかったけど4枚カード問題はわからない。もしくは、飲酒問題に比べて、4枚カード問題は「難しい」と感じませんでしたか?
しかし、この二つの問題は全く同じ「論理的思考」を必要とする問題です。
すなわち、「AであればBである」が正しいためには、「Aの時、Bである」ことと、「Bでない時、Aでない」ことの両方が正しいことが、「論理的なルール」です。
つまり、4枚カード問題においては、
「母音のカードをめくって、裏に偶数が書いてあること」
「奇数のカードをめくって、表に子音が書いてあること」
飲酒問題においては、
「ビールを飲んでいるのカードをめくって、裏が19歳を超えていること」
「19歳以下のカードをめくって、裏がビールを飲んでいないこと」
それぞれ両方を確かめなければなりません。
この問題は1980年代における認知科学研究として大変有名なもので、実際の一般成人を対象とした実験結果として、4枚カード問題の正答率4%に対して、飲酒問題73%という驚くべき数字が報告されています。
どうして「同じ論理問題」であるにも関わらず、正答率にここまでの差が出るのでしょうか?
というか、おそらく多くの人が飲酒問題を、「論理的に考えて答えが出た」とは感じてないのではないでしょうか?
「飲酒」という馴染みのある文脈において、「未成年は飲んじゃダメ」という「知識」を無意識的に用いて、「16歳のカードをめくる必要がある」と自然と感じたのではないでしょうか?
実は、このような実験がなされる1980年代頃まで、多くの研究者は「人間は、いかなる内容に対しても成り立つ普遍的なルールを学び、それを適用することで推論を行っている。」と考えてきました。
しかし、この時期を境に、「人間は、記憶にある具体的な知識に依存して推論を行っている可能性が高い。」という見方をするようになります。
知識によるバイアス
では、次にもう一つ有名な例を見てみましょう。
以下の文字を読んでみてください!
多くの人が、「THE CAT」と苦もなく読めたと思いますが、
上の「H」と下の「A」は、全く同じ形をしています。
それにもかかわらず、上を「H」、下を「A」と「見る」ことができたのは、どのように説明できるでしょうか。
それは、英語をある程度学んだ人は、「THE」や「CAT」という言葉を「知って」おり、「THE CAT」と読むことが過去の経験(記憶)から、自然であると無意識的に「思考」しているからと考えられるでしょう。
同じような例は他にもたくさんあります。(例えば以下の例)
まとめ
上では、
ある程度誰でも持っている「知識」(未成年は飲酒禁止、簡単な英単語、アルファベット・数字)が、無意識的に推論や認識に影響を与えている例を見てきましたが、
これは、数学の問題を解くときや、ビジネス上の課題解決、サッカーの戦術、読書、ナンパ、・・・などなどあらゆる場面における「思考」においても同様で、それぞれの課題に依存した「知識」の無意識的な働きがあって初めて、「思考」ができるのです。
そして、それらの課題に依存した「知識」は、当然それを過去に学習(経験)した人のみが身につけていることなので、それを身につけている人と、いない人でその課題に対する「思考力」に差が出ることもまた当然なわけです。
しかしここで厄介なのは、これらの「知識」の使用が無意識下で行われているため、ある問題を解決した人が、自分がどのようにして問題を解いたのかを真に正確に説明することは不可能だということです。
つまり、ある人が「AだからBで、BだからCで、CだからDで、だから答えはDだ!」と言っても、「AだからBと思いつく」段階で、そもそも「AをAだと認識する」段階で、すでに数多くの関連する「知識」を無意識的に使用しているのです。
表題に戻って、東大生は「頭の出来」が違うのか?
という問いですが、
今まで見てきたように、考えることは大きく「知識」に依存しています。そして、「知識」は、学習(経験)を通して後天的に獲得していくものです。
ゆえに、「頭の出来」を生得的なものとして捉えるならば、表題の問いは誤りです。
ただ、「経験してきたこと」が違うだけです。
「知識」から独立した、いわゆる才能のような「考える力」は存在しません。
とまあ、前編にしてすでに表題の問いに答えを出してしまったわけですが、
しかし、ここで読者の中にはイマイチ納得できない違和感を感じてらっしゃる方もいるかもしれません。
「でも、実際「頭が良い」人って、どんな仕事をやらせてもうまくできるし。」
「数学の応用問題とかって、必要な「知識」は「知ってる」のに、わかんなかったりするし。」
「じゃあ、私たちは「知らない」ことに関して考えることは全くできないのですか?でも、現実には初めて出会うような状況にも私たちは対処していくじゃないですか。」
はい、おっしゃる通りで、このようなことは現実に見られ、そして人間の素晴らしく経済的な脳機能によって実現されています。
専門的には「知識の転移」と言いますが、それ以上にこれは「そもそも知識とは何なのか?」という本質的な問いの入り口でもあります。
次回はこれについて説明していきたいと思います!
では、次回乞うご期待!!
投稿者プロフィール
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【専攻】教育・教育工学
【所属】東京大学大学院学際情報学府修士1年
・「記憶」や「理解」など「学習」に関わる脳内メカニズム
・「学習理論」や「教授方法」
・教育の歴史
・最近の学校教育の動向、教育格差
・EdTech
etc.
脳科学や教育心理学、社会学などの知見を活用して、教育に関わることを全般的にポストしていこうと思います!
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